浅草寺の戦跡

  桜がちらほら咲き始めていた3月24日、平和のための埼玉北部戦争展実行委員会の人たちと浅草寺の東京大空襲戦跡を見学してきた。

 「台東九条の会」の方の案内で、雷門→仲見世通り→鎮護堂(ちんごどう)→二天門南の母子地蔵尊・平和地蔵尊→平和の時計・水吹きイチョウ→淡島堂の浅草大平和塔・戦災供養地蔵尊を巡り、そして隅田公園の、戦争により亡くなられた方々の碑の前と言問橋(ことといばし)のたもとで、犠牲者の冥福と平和を祈り、過ちを繰り返さないことを決意して約2時間ほどの戦跡巡りを終えた。

 

 浅草寺(せんそうじ)には何度か行ったが、いつも雷門→仲見世通り→本堂(観音堂)・参拝→仲見世通り・お土産→雷門のコースで、本堂のすぐ近くに戦災イチョウや平和地蔵尊などの戦跡があることを知らなかった。十数年前に団体で浅草寺近くの旅館に泊まり、早朝1人で境内を散歩したことがあるが、その時でさえ、うかつにも戦跡の存在に気づかなかった。

 「本堂のすぐ近くの一等地に平和地蔵尊や母子地蔵尊の設置を認め、境内数カ所に平和祈念碑等の建立を許可しているところに、浅草寺の平和へのメッセージが読み取れます」との案内者の解説にも感動、「何事にも先達はあらまほしきことなり」(『徒然草』)を実感した1日だった。

 

【東京大空襲とは】(『浅草戦跡マップ』より)

 太平洋戦争末期、1945{昭和20)年3月10日の深夜、東京の下町一帯は天をも焦がす業火に包まれました。この日、日本の南方海上のマリアナ群島の米軍基地を午後5時ごろ発進したB29戦略爆撃325機は、1,783トンに及ぶ1万3千発のナパーム焼夷弾を抱え、東京に向かいました。その狙いは旧浅草(台東区)、本所(墨田区)、深川(江東区)、日本橋(中央区)など、木と紙でできた家ばかりの東京の下町に焼夷弾攻撃を加え焦土と化すことだったのです。

 10日午前0時7分から午前3時まで継続されたこの大空襲で10万人余の死者、11万人余の負傷者、そして家屋の焼失約100万戸という惨劇が生じました。この被害は、広島、長崎の原爆に匹敵するものです。

 東京空襲の初期の頃は、1944(昭和19)年11月の武蔵野の中島飛行機工場など軍事施設への攻撃が多かったのです。しかし、1945年元旦から一般市民に向けての爆撃が連日波状的に行われ、B29は「定期便」と呼ばれるほどでした。1月27日午後、東京の中心である銀座、有楽町界隈が爆撃されて、白昼から多数の死者を出しました。そしてついに3月10日を迎えました。

 

 午前0時すぎ、米軍による下町の人家密集地域への計画的な市街地焦土作戦、武器を持たない一般住民大量殺傷である爆撃が始まりました。折から北北西の強風で地上は大火焔を吸い込んで火の海となり、火の玉となり、道を走り、家屋をつらぬき、隅田川を越えてまたたく間に東京の東部一帯を火のるつぼと化したのでした。無数の市民が逃げ場を失い炎に包まれて焼死しました。爆撃は2時問あまりで終わりましたが、地獄の夜が明けると東京は見る影もない姿に変わっていました。下町界隈は見渡すかぎり焼けトタンと瓦礫の焦土となり、アスファルト道路は溶け、裸足の人の足跡が点々と浸み込んだ言問橋や、水死体でうずまった運河、黒焦げの焼死体がマネキン人形のように倒れていました。焼死した人々はほとんどが非戦闘員の女性、子ども、お年寄りたちで、身元不明のまま葬られました。まさに大量虐殺です。(略)

 戦争は二度と繰り返してはなりません。そのために3月10日の東京大空襲を風化させてはならないという願いを込めて、この「浅草戦跡マップ」をつくりました。(発行:東京大空襲資料展実行委員会/台東9条の会)

 

『浅草戦跡マップ』には埼玉大学の教授(教育学)をされていた清水 寛先生の言葉が紹介されている。

 戦争だけは体験で学んではいけない。

 戦争は、記憶し、想像し、伝えていくものです。

 

sensoji-sinboku.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

戦災イチョウ 東京大空襲で被災した本堂近くのイチョウ。
イチョウは浅草寺のご神木となってい

 

sensoji-sinboku2.jpgのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

火傷の跡 今もなまなましく火傷の跡が残る。

sensoji-ityo1.jpgのサムネール画像のサムネール画像

 焼夷弾被害の状態

 

地面で爆発し上に向かって
火焔が昇る焼夷弾火災の状況を示す戦災イチョウ。
浅草寺境内に戦災イチョウが10本ほど残っている。

sensoji-heiwajizo.jpg


平和地蔵尊 戦災で亡くなった人たちの霊を慰め、
世界平和を祈念して篤志家・龍郷定雄氏が
1949年に
を投じ浅草寺の協力を得て建

 

sensoji-bosijizo.jpgのサムネール画像

母子地蔵尊 戦争末期、放置された旧満州の開拓民(日本人)
が悲惨な逃避行を余儀なくされ多数の犠牲者を出した。死別あるい
は生き別れて死亡した母子の慰霊のために、逃避行体験者の漫画家
9人が発起人となって1997年に平和地蔵尊の隣の敷地に建立された。

 

sensoji-mizufukiityo.jpgのサムネール画像

 水吹きイチョウ 五重塔のそばにあり、関東大震災(1923年)
と東京大空襲の2度の大火を生き抜いてきたイチョウで、火災時には
水を噴き出して堂塔を守ったと伝える。イチョウの木は水分を多く含み
火災に強い木とされているとか。

 

sensoji-heiwato.jpg

浅草大平和塔    浅草地区で戦災にあった1万余の霊を慰め、
平和を祈願して、浅草寺信徒や町会、地域の団体により淡島堂
に1963年に建立。
碑文「みたまよ/とこしえに/安らかに/われら守らん
/世界の和」はノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士の筆。

 

sesoji-heiwato2.jpg

 

sensoji-kuyojizo.jpg

戦災供養地蔵尊  浅草花柳界に身を置き、戦災で亡くなった人
たちの霊を慰めるために、旧浅草藝妓組合などが淡島堂に 1962年
に建立。

 

sumidakoen-ireihi.jpgのサムネール画像

戦争により亡くなられた方々の碑 墨田公園の言問橋周辺は
東京大空襲でたくさんの人々が亡くなり、仮埋葬されたところ。犠牲者
の霊を悼み平和を祈念して1986年に台東区が建立。
 

kototoibasi-sekiyu.jpgのサムネール画像

戦火の焼け跡を伝える言問橋の橋脚
言問橋の橋脚の石には、黒く焼けただれた被災当時の跡が
随所に残っている。

by  藤波 滝音 です

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)