解同委員長の「反論」へのコメントー元校長講演問題その後5

 部落解放同盟埼玉県連委員長の「龍郷町差別事件・人権連のお粗末な非難」が「解放新聞埼玉」の09年7月1日号と15日号の2回にわたって掲載されました。9,500字近いお粗末な「‥‥非難」に、あれこれ反論するつもりはありませんが、質問・要望もあり、参考までに3点についてだけ書いておきます。なお、「元校長講演問題についての埼玉人権連の見解」は「埼玉人権連」のホームページ「埼玉人権連の主張」をご覧下さい。(管理人)

  人権連の主張 

 解同県連委員長・片岡氏の「反論」(以下「反論」と呼称)は、「はじめに」の項で、「人権連が、鹿児島県龍郷町差別講演事件に関連しておこなっている解放同盟県連への批判は、次の4点である」として、次のように5点に整理(?)している。

  ①「元校長が他県に出かけておこなった講演について、他市町村の教育長・教育委員会には関係も責任も全くなく、見解を述べる理由は何もない。にもかかわらず……1人の校長の問題を全体の問題であるかのように描いて、もはや必要のない同和教育をなお継続させようとしている」

 ②「教育委員会がやるべきことは、(解放同盟の交渉に出席して見解を述べたりすることではなく)……教育の専門家として元校長が紹介した実践方法を検証し、小学6年生の発達段階と子どもたちの現在の生活を十分考慮した『あるべき身分制度の授業』について、……研究協議して誤りや不十分さを修正・改善することである」

 ③「草加市の元校長の鹿児島県での講演は、小学校での授業に関するもので、いわゆる『同和教育』とは関係ない。授業で『身分制度』を扱うとしても、それは歴史をどう教えるかの問題であって『同和教育』とか、行政等が言う『人権教育』とかの問題ではない」

 ④「現在の小中学生の生活の中には部落問題は存在しないのであり、『副教材』などを使って特別なことをすれば、それこそ子どもたちに偏見を植え付けることになる。役割を終えた同和教育は、早急に終結させるべきである」

 ⑤「(講演のもとになっている元校長の書籍『教えて考えさせる授業の理論と展開』を絶版にしたことは)出版妨害であり、言論・表現の自由の侵害である」(「人権のひろば」325日号、全国人権連機関誌「地域と人権」515日号より抜粋)。

(1)解同はいつ行政になった?

「反論」に紹介されている上記の①②は、市町村の教育長・教育委員会の無責任な姿勢に対する埼玉人権連の批判、③④は埼玉人権連の「同和教育」に関する考え、をそれぞれ述べたものであり、⑤以外は「解放同盟県連への批判」ではない。

 市町村の教育長・教育委員会への批判を解放同盟県連への批判、とするところに、現在の解放同盟の本質の一端が現われている。「行政の言い訳を、なぜ解同がする?」「解同はいつ行政になったのだ」。———まさにおごりとゆ着をさらけだしたもの、というほかはない。

 そして「同和教育を終わりにすべし」と言えば、これも「解放同盟県連批判」となる。このような脅かしが通用してきたために、やはり見せかけの「おごり」が身についてしまっていると見える。

  おまけに、「反論」は、「一元校長が他県でおこなった講演について、他市町村の教育長・教育委員会には関係も責任も全くなく、見解を述べる理由はない」のか、「ここは例えたほうが分かりいい」として、「下着ドロボーで懲戒免職になった教員……飲酒運転やセクハラで免職になった教員」を例にあげて、直接管轄下にある教員でないから関係ないで済まされるのか、と言っている。
A市の教員の下着ドロボー事件について、E町の教育長が公の場で見解を述べた、そんな話は聞いたことがない。わざわざ鹿児島県まで「確認会」「糾弾会」に出かけた上に、「発言者を生み出した埼玉としてこの事件をどう総括するか」と称して県内の教育委員会交渉などを繰り返してきた問題が、下着ドロボーに例えられるとは。あまりにも「お粗末」……。

 (2)永遠に続ける「同和教育」—— 課題の解決にならない

 「反論」は、「人権連の同和教育に対する無知、無理解」を言い立てるが、自分たちの考え方と違うものは「無知、無理解」とする傲慢さ。

 同和教育とは何か。「反論」は、「同和教育とは、①就学保障、学力保障、進路保障を柱にした教育保障の取り組み、②部落問題を含めた人権問題を正しく理解する人権学習、③障がい者や外国人労働者、HIV等感染症患者、同和地区の子弟など被差別の立場に置かれた生徒が生き方を学ぶこと」とし、「教育保障が何と言っても同和教育の大きな柱である」とする。

    「かつて差別による貧困のために給食費が払えない、学費が払えない、進学したくても進学出来ない子どもたちが同和地区にたくさんいた。親の手伝いで学校に来れなかった子どももいた。その子どもたちの就学を保障し、学力を保障し、進学・就職を保障しようと始められたのが同和教育だった」とする点は、我々の考え方とほぼ同じと言ってよい。

 しかし、その次の「ところで現在、日本中で給食費が払えないとか、学費が払えないから高校進学をあきらめるという児童・生徒が増えている。競争万能主義を標榜する政策のもとで、その数は年々急増している。これは半世紀前の同和地区の姿そのものではないか。この子どもたちの就学や進路、学力を保障することが、ほかならぬ同和教育だ。同和教育という呼び方が気に入らなければ人権教育でもいい」とするところは、全く我々と違う。

 同和教育は、部落問題に起因する教育上の課題を解決するために取り組まれた教育である。

 今日深刻な社会問題になっている「子どもの貧困と教育の問題」は、部落問題が原因となって生じている問題ではない。

 原因が異なれば解決方法も異なる。「就学保障・学力保障・進路保障」はまさに公教育そのものが取り組む課題であり、就学・学力・進路の障害になっている原因は何かを明らかにして、解決をめざす。

 「格差が拡大する中でいじめや人権侵害が増えているが、このいじめや人権侵害をなくそうとするのが、同和教育=人権教育である」としたり、「同和教育の目的が学力保障と仲間づくりだと確信しているから」集会所小中学生学級(子ども会)を行なっている、とするのも、課題となっている問題の原因を無視した勝手な理屈である。課題自体が解決しないうえに、人間が生きているかぎり、教育があるかぎり「同和教育」が続くことになる。

 同様に、社会科・歴史の授業に関して、「授業で『身分制度』を扱うとしても、それは歴史をどう教えるかの問題であって『同和教育』とか、行政等が言う『人権教育』とかの問題ではない、とする我々の主張に対する「反論」の批判———「朝鮮人の人権問題もアイヌ民族の人権問題も、いずれも過去にその原因になった植民地支配や「開拓」などの歴史があり、それが今日の朝鮮人問題やアイヌ民族問題を形づくっているのである。それを学ぶのが歴史教育ではないか」とまともなことを言いながら、「それをわざわざ切り離して『人権教育とは関係ない』などと言うことがいかに犯罪的かは、論じるまでもない」として、「同和教育=人権教育」に結びつけようとする。やはり我々とは全く違う考えだ。

  (3)言い訳で、人権は守れない

 元校長の書籍への「出版妨害であり、言論・表現の自由の侵害」とする我々の批判に対して「反論」は、「これについては、事実関係を説明するだけで足りる」として、「校長は出版社と相談して絶版にしたのだがしかし、解放同盟が絶版を要請したわけではない。われわれは、改訂版を出す場合の条件をつけたが絶版は要請していない。『出版妨害、言論・表現の侵害』と非難しているが、まったく事実ではない」と言い訳している。

 その後に起きている事実関係も含めて検証すれば、まさに「出版妨害、言論・表現の自由の侵害」を行なったのであり、許されない。

 (「反論」は、書籍名を『教えて考えさせる授業の理論と展開』としているが、故意か否かは分らないが、この名称の書籍は存在しない)。

                                 

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 〈資料〉「解放新聞埼玉」09年7月1日号・15日号

   「龍郷町差別事件・人権連のお粗末な非難」

             部落解放同盟埼玉県連委員長 片岡明幸

  1.はじめに

 「いまどき人権連と論争しても、誰も面白がらないし、関心を持たない。時間の浪費だ」という意見があったので無視しようと考えたが、全国人権連(全国地域人権運動総連合=旧全解連のこと。以下「人権連」という)の機関紙に特集記事が掲載されるに及んで、この際、反論することにした。

 人権連が、鹿児島県龍郷町差別講演事件に関連しておこなっている解放同盟県連への批判は、次の4点である。

 ①「元校長が他県に出かけておこなった講演について、他市町村の教育長・教育委員会には関係も責任も全くなく、見解を述べる理由は何もない。にもかかわらず……1人の校長の問題を全体の問題であるかのように描いて、もはや必要のない同和教育をなお継続させようとしている」

 ②「教育委員会がやるべきことは、(解放同盟の交渉に出席して見解を述べたりすることではなく)……教育の専門家として元校長が紹介した実践方法を検証し、小学6年生の発達段階と子どもたちの現在の生活を十分考慮した『あるべき身分制度の授業』について、……研究協議して誤りや不十分さを修正・改善することである」

 ③「草加市の元校長の鹿児島県での講演は、小学校での授業に関するもので、いわゆる『同和教育』とは関係ない。授業で『身分制度』を扱うとしても、それは歴史をどう教えるかの問題であって『同和教育』とか、行政等が言う『人権教育』とかの問題ではない」

 ④「現在の小中学生の生活の中には部落問題は存在しないのであり、『副教材』などを使って特別なことをすれば、それこそ子どもたちに偏見を植え付けることになる。役割を終えた同和教育は、早急に終結させるべきである」

 ⑤「(講演のもとになっている元校長の書籍『教えて考えさせる授業の理論と展開』を絶版にしたことは)出版妨害であり、言論・表現の自由の侵害である」

(①〜④は埼玉人権連機関紙「人権のひろば」325日号「元校長講演問題についての埼玉人権連の見解」より、⑤は全国人権連機関誌「地域と人権」515日号特集記事より抜粋)

2.いったいどっちなのか

 本題に入る前に、はっきりさせておかなければならない大事な問題がひとつある。元校長の発言に対する人権連の評価についてである。奇妙なことに人権連は、これだけ解放同盟をボロクソに批判していながら、その原因になっている元校長の発言に対してはそれが差別発言なのか、そうではないのかについて一言も触れていない。実際、批判文は「講演内容が差別講演として『解同』から糾弾されて問題になっています」と言うような調子で客観的に紹介しているだけで、「確かに問題発言だった」と言うわけでもないし、さりとて「発言は差別ではない」と否定するわけでもない。これはいったいどういうことだ。

 その理由は、簡単だ。人権連もさすがに差別発言ではないと言えないからだ。言えないから肝心の発言については口をつぐんでいるのだ。

 文章を読んでみると「誤謬許さぬ研修は恐怖」とか、「教育委員会がやるべきことは、……誤りや不十分さを修正・改善すること」「一人の校長の問題を全体の問題であるかのように」などという言い回しが頻繁(ひんばん)に出てくる。「誤謬許さぬ研修」とは、元校長の講演は誤謬ではあるけれど、それを許さない解放同盟の追求(追及?——引用者註)は間違っている、という意味である。「誤りや不十分さを修正・改善すること」とは、元校長の発言は誤りであり不十分であるけれど、それは修正・改善すればすむ話である、という意味である。「一人の校長の問題を」とは、校長の発言は問題だが、それを全体の問題であるかのように言い立てるのは間違っている、という意味である。つまり、校長の発言は「誤謬」であり、「誤り」であり、「問題」であるけれど、それをことさら騒ぎ立てる解放同盟のやり方は問題だ、と言っているのである。

 人権連は、事実上差別発言ということを認めているのである。しかし、それをそのまま文章にのせると解放同盟にいいように叩かれてしまう。それでは都会が悪い。そこで肝心の校長発言については口をつぐんだまま批判文を新聞に発表したのである。なんとも姑息なやり口ではないか。

 しかし、長年の宿敵解放同盟を批判するのに、校長発言は「誤謬」と認めてしまった上で批判するとは、人権連もよくよく焼きが回ったものだ。そんな及び腰で解放同盟が批判できるとでも思っているのだろうか。この話は、論争する前に勝負がついてしまっている。

  3.教育委員会は関係ないのか

 さて人権連の批判の第1は、「一元校長が他県でおこなった講演について、他市町村の教育長・教育委員会には関係も責任も全くなく、見解を述べる理由はない」というものだ。

 人権連は、本気でこんなことを考えているのか。ここは例えたほうが分かりいいのでそうするが、例えば、昨年も下着ドロボーで懲戒免職になった教員がいた。飲酒運転やセクハラで免職になった教員がいた。その際、そんなことはうちの市で起きた問題ではないのだから「教育委員会にはまったく関係も責任もなく、見解を述べる理由はない」ということで済まされるのか。直接管轄下にある教員でないから、そんなことは関係ない」で通るのか。こうした事件や問題があった場合、それを反省材料として教訓化するのが世間の常識ではないのか。例えば、議会等で見解を求められれば、「他山の石とせず教訓にしたい」くらいの答弁をするのではないか。

 人権連は「すでに退職し現在は一民間人である元校長」(「人権のひろば」)ということをことさら強調し、「やめた人間にまで責任を負う必要がない」といっているが、少なくとも元校長は、発言直前の昨年3月まで草加市の校長であり、退職した4月以降も週3日勤務の現役の新任指導教員である。学校とも教育委員会とも関わりがないなどとどうして言えるのか。しかも、教育とは直接関係ない場面での発言ならまだしも、鹿児島県龍郷町の教育委員会に呼ばれておこなった「教育講演会」の席上での発言が問題になっているのだ。退職者だから関係ないなどと言えるはずがない。

  4.教育委員会がやるべきことは何か

 人権連の2番目の批判は、「教育委員会がやるべきことは、…教育の専門家として元校長が紹介した実践方法を検証し、『あるべき身分制度の授業』について……研究協議して誤りや不十分さを修正・改善することである」という内容であった。ここでは教育委員会としてやるべきことは、元校長が紹介した実践方法を検証することであって、確認学習会や糾弾学習会に出席して「同和教育の再構築」などを約束することではないということがポイントである。

 おっしゃるとおりだ。人権連はそういうことをしないのかも知れないが、われわれはもちろんすぐに差別発言だと決めつけて問題にしたわけではない。元校長が紹介した実践方法を検証し、「あるべき身分制度の授業」について研究協議したうえで「誤り」だと指摘することにしたのだ。われわれは鹿児島で問題が指摘された後すぐに、元校長がどういう趣旨、文脈の中で発言したのか、埼玉県人権教育研究協議会と合同の検討会を開き、検討した。その結果、「このまま授業で実践されたら偏見を植え付けることになる」と判断したのである。判断した上で、解放同盟、埼人教がそれぞれの見解を発表したのである。その内容は解放新聞埼玉版21日号に掲載しているのでそれを見てほしいが、「検討もしないですぐ差別と決めつけて」と人権連は非難しているのであるが、まったく的はずれというものだ。

 ついでに言うと、われわれはその後、「あるべき身分制度の授業」について研究協議を重ねてきた。およそ1年が経過しているが、その間研究会を開催して「あるべき身分制度の授業」を議論し、現在はそれをまとめる作業をおこなっているところである。元校長の提案するような授業が駄目だという以上、どのような授業をやるべきかを提案するのは、人権・同和教育にかかわるものの責務というか良心というか、当然のことだと考えたからである。

 ところで、人権連は元校長の実践方法を検証したのか、検証した結果どういう結論に達したのか。それをぜひ聞かせてもらいたいものだ。人権連の機関紙には、検証した結果は一行も掲載されていない。

 5.歴史教育と人権教育の切断

 人権連の3番目の批判は、「草加市の元校長の贋児島県での講演は、小学校での授業に関するもので、いわゆる『同和教育』とは関係ない。授業で『身分制度』を扱うとしても、それは歴史をどう教えるかの問題であって『同和教育』とか、行政等が言う『人権教育』とかの問題ではない」というものである。

 この批判の趣旨は、小中学校の教科書にはたしかに江戸時代の身分制度に関連して「きびしく差別された身分」(小6)、「えた身分・ひにん身分」(中2)が出てくるけれど、それはあくまでも歴史の事実として客観的に説明すればよいだけで、——例えば関ケ原の戦いがあったとか、本能寺の変で信長が殺されたという出来事と同じで——それは人権教育とも同和教育とも関係ない、というものである。なぜなら同和問題は過去の問題で、現在はまったく消滅した社会問題だからだ、ということなのだ。

 ここでも例をあげてみよう。例えば、日本が朝鮮を植民地として支配し、名前を変えさせたり、強制連行したことは歴史の事実である。また、明治以降、開拓と称して北海道に進入し、アイヌ民族の土地や生活を奪ったことも事実だ。人権連は、それらの事実は歴史の事実として客観的に説明すればよいだけで、朝鮮人の人権問題やアイヌ民族の人権問題とは何の関係もない、と言うのである。本当にそれでいいのか。社会科の授業で「朝鮮の植民地支配」や「北海道の開拓」を扱うとしても、「それは歴史をどう教えるかの問題であって『同和教育』とか、行政等が言う『人権教育』とかの問題ではない」とすませられるのか。

 もちろん、そんなことはない。朝鮮人の人権問題もアイヌ民族の人権問題も、いずれも過去にその原因になった植民地支配や「開拓」などの歴史があり、それが今日の朝鮮人問題やアイヌ民族問題を形づくっているのである。それを学ぶのが歴史教育ではないか。それをわざわざ切り離して「人権教育とは関係ない」などと言うことがいかに犯罪的かは、論じるまでもないことだ。

 歴史を学ぶのは、テストのための年表を暗記するためではない。歴史を教訓にして現在の社会や政治を考えるためではないか。実際、歴史を学ばないことがいかに誤った結果を生むかは、例えば日本の侵略戦争を「アジア解放のための聖戦だった」と言う政治家の発言ひとつ取ってみれば十分にわかるというものだ。歴史教育から人権問題や社会問題を切り離せばこうなるのだ。人権連は「同和教育に限っては違う」と言うのかも知れないが、その点については次号に詳しく批判する。

 6.「寝た子を起こすな」

 鹿児島県龍郷町における元校長の差別発言事件に対する人権連の4番目の批判は、「現在の小中学生の生活の中には部落問題は存在しないのであり、『副教材』などを使って特別なことをすれば、それこそ子どもたちに偏見を植え付けることになる。役割を終えた同和教育は、早急に終結させるべきである」(埼玉人権連機関紙「人権のひろば」)というものであった。

 「現在の小中学生の生活の中には部落問題は存在しない」というのは、①現在の子どもたちは部落問題を知らない、②部落差別をする子どももいないし、差別される子どももいない、という意味である。③就学、学力、進路などで部落問題に起因する教育上の課題もすでに見あたらない、という意昧も含ませているのかもしれない。そのうえで人権連は、同和問題を教えることは「偏見を植え付けることになる」と批判しているのだ。言い回しは若干違うが、つまるところ差別はなくなっているのだから「寝た子を起こすな」「同和教育はやらない方がいい」という古くからの考え方以外の何ものでもない。

 しかし、本当に寝た子は起こさない方がいいのか。同和教育はやらない方がいいのか。ここは部落問題の核心的な問題だからしっかり聞いてもらいたい。話をわかりやすくするため、結論をまず先に言う。次の2つの理由から、「同和教育はやらない方がいい」という考え方は間違っている。

①「やらない方がいい」という考え方は、

「子どもたちは今後、同和問題に出会うこともないし、仮に出会っても差別するようなことはない」ということを前提にしているが、しかし、これまでのさまざまな調査から「今後、同和問題に出会うこともないし、仮に出会っても差別するようなことはない」ということはあり得ない。

 ②また「やらない方がいい」という考え方は、「同和教育をやれば、かえって偏見を植え付けることになる」ということを前提にしているが、これまでの調査を見る限り、同和教育が子どもたちに偏見を植え付けたという事実はない。地域差や学校差はあるものの、調査結果から同和教育は、おおむね同和問題に対する正しい認識を子どもたちにもたらしている。

 ◆生涯出会うことはないのか

 第1点目から解説していこう。先に述べた通り、「同和教育はやらない方がいい」という考え方は、「子どもたちは今後、同和問題に出会うこともないし、仮に出会っても差別するようなことはない」ということを前提にしている。しかし、これまでの各地の調査から見るかぎりそういうことは

ない。実際、どの調査でも7割から8割が同和問題を知っており、同和問題の認知率は年令が高くなるほど高くなっている。年を重ねるうちに、どこかで同和問題に出会うというのは自然の成り行きである。もちろん、なかには死ぬまで知らないという人間もいるだろうが、ほとんどの人間は、どこかで同和問題に出会うのである。そして問題は、学校ではない場所での同和問題との最初の出会いは、きわめて問題を含んでいるということだ。

 例えば、労働組合員1507人を対象にした98年の部落解放群馬県共闘の意識調査は、興味深い結果を示している。この調査の中に「同和問題を初めて知った際、その人はどのような言い方をしましたか」という質問がある。256%が「差別を解消する立場での話とは感じられなかった」と回答している。その内容は多い順に、①「どこや誰が部落だと言った」②「差別語やジェスチャーでそれとわかる仕草をした」③「結婚相手として避けるべきだ」という順である。その情報源は、①友人②家族③近所の順で、身近な人間が圧倒的に多い。いっぽう「差別を解消する立場の話と感じた」は430%あるが、①講演会・研修会②学校の授業③職場の人の順である。内容は、①「いまは平等だと言った」②「一般論としていった」③「民衆を支配するためにつくられたもの」の順である。この調査に見られるとおり、学校ではなく家族や友人から情報が入る場合、誤った情報が伝えられる傾向が非常に強い。人権問題では第1印象、つまり最初に誰からどのような情報が入ったのかという「刷り込み」が大きな役割を果たしていることを考えると、学校での学習なしで同和問題に出会うことは、誤解や偏見を受け入れてしまう傾向を強く持っている。

 ◆同和教育は偏見を植え付けるのか

 2点目に移ろう。「やらない方がいい」という考え方は、「同和教育をやれば、かえって偏見を植え付けることになる」ということを前提にしているが、これまでの調査を見る限り、同和教育が子どもたちに偏見を植え付けたという事実はない。中途半端な教え方が、中途半端な理解や認識をもたらすということは認めるが、さきの群馬の調査結果をみても、同和教育はおおむね同和問題に対する正しい認識を子どもたちにもたらしている。「同和教育をやった子どもたちが偏見を持つ」という認識は、科学的な根拠がない。もし、そうだとしたら同和教育を受けた世代----おおよそ30代から60代の人間の大半は偏見を持っていることになるが、現状はそうなっていない。大半の社会人は、同和教育によって同和問題の起源や歴史について正しい理解を示すようになっている。当然のことだ。よほどグレたような教員でない限り、教員が教室で部落問題を説明するのに偏見を刷り込んでやろうとする者はいないだろう。どの教員もひとまずは子どもたちが差別しないようにとの思いを込めて、部落の歴史や現状を語るのである。教員が差別をなくそうと取り組む同和教育が、子どもに「偏見を植え付ける」というのは根拠のない思いこみであって、科学的ではない。同和教育はそれなりに成果を収めてきている。「同和教育は偏見を植え付ける」という主張は、根拠のない一種のデマだ。

 ちなみに07年に行った県南の県立高校の意識調査では272%が「人種・民族が違う」、99%が「宗教が違う」、111%が「仕事・職業が違う」と回答している。同和教育をやめれば、めいめい想像に任せて誤解や偏見を持つのは、当然のことだ。

 7.言論・表現の自由の侵害なのか

 人権連の5点目の批判は、元校長が講演のもとにしていた書籍「教えて考えさせる授業の理論と展開」を絶版にしたことは「出版妨害であり、言論・表現の自由の侵害である」(全国人権連「地域と人権」)というものである。これについては、事実関係を説明するだけで足りるだろう。

 鹿児島県での確認学習会の席上、元校長の書籍が問題になった。書籍の中に小学6年社会科の「身分制度」が授業の実践方法の事例として掲載されており、元校長はこの書籍をもとに講演したのだ。そのため解放同盟は「改訂するべきだ」と批判し、「改訂にあたっては解放同盟の意見も取り入れてほしい、また事前に見せてほしい」と要請し、元校長も了解した。

 ところが元校長は、まったく連絡も協議もなしに、いきなり改訂版を出版した。しかもその内容は、いろいろな問題を含んだものであった。これについては、埼玉人権教育研究協議会が厳しい批判文を発表しているのでそれを見てほしいが、一口に言えば指摘された個所だけを削除し、歴史的に根拠のない「五人組制度」などを持ち出して安易に問題を処理しようとしている。このため、2月の解放同盟と草加市との交渉の席上、元校長に批判が噴出した。その後、校長は出版社と相談して絶版にしたのだがしかし、解放同盟が絶版を要請したわけではない。われわれは、改訂版を出す場合の条件をつけたが絶版は要請していない。人権連は「出版妨害、言論・表現の侵害」と非難しているが、まったく事実ではない。

 

 8.同和教育の無知・無理解

 ところで人権連は機関紙で「競争と自己責任をせまる『構造改革』政治のもと、競争と管理を基調とする教育政策により、いま学校はたいへん厳しい状況にさらされている。子どもたちの生活と将来が心配される」と述べ、「子どもたちにとって重要かつ切実な課題に取り組まなければならない」と主張しているのであるが、その同じ文章で「同和教育を学校に持ち込むな」と叫んでいる。この相矛盾する主張のなかに、人権連の同和教育に対する無知、無理解がいかんなく示されている。最後にこの点を指摘したい。ここでも結論からいう。人権連は、同和教育のなんたるかをまったく理解していない。

 今さら言うまでもないことだが、同和教育とは、①就学保障、学力保障、進路保障を柱にした教育保障の取り組みであり、②部落問題を含めた人権問題を正しく理解する人権学習である。③障がい者や外国人労働者、HIV等感染症患者、同和地区の子弟など被差別の立場に置かれた生徒が生き方を学ぶことも大事な柱であるが、ここでは教育保障が何と言っても同和教育の大きな柱であることを強調しておきたい。

 振り返れば、かつて差別による貧困のために給食費が払えない、学費が払えない、進学したくても進学出来ない子どもたちが同和地区にたくさんいた。親の手伝いで学校に来れなかった子どももいた。その子どもたちの就学を保障し、学力を保障し、進学・就職を保障しようと始められたのが同和教育だった。ところで現在、日本中で給食費が払えないとか、学費が払えないから高校進学をあきらめるという児童・生徒が増えている。競争万能主義を標模する政策のもとで、その数は年々急増している。これは半世紀前の同和地区の姿そのものではないか。この子どもたちの就学や進路、学力を保障することが、ほかならぬ同和教育だ。同和教育という呼び方が気に入らなければ人権教育でもいい。同和教育も人権教育も、本質的に就学保障・学力保障・進路保障がその柱である点は変わらない。一方、格差が拡大する中でいじめや人権侵害が増えているが、このいじめや人権侵害をなくそうとするのが、同和教育=人権教育である。その同和教育を「学校に持ち込むな」と、人権連は叫んでいるのだ。

 解放同盟は、02年に支援を求めているすべての生徒を対象にした奨学金制度を国に要求し実現させたが、それは就学保障が同和教育の目標だと信じているからだ。また、われわれは集会所小中学生学級(子ども会)を続けているが、それは同和教育の目的が学力保障と仲間づくりだと確信しているからだ。子ども会には、地区外の子どもがたくさん参加している。不登校や、経済的に塾に行けない子どもたちも参加している。

 長引く不況の中で、就学・学力・進路の保障が大きな教育課題となり、また、いじめや不登校、児童虐待などの人権侵害が深刻になっていることを繰りかえし述べたが、だからこそ私たちは、「いまこそ同和教育の出番」と呼んでいる。しかし、人権連はこうした同和教育の意義がまったく理解出来ない。出来ないばかりか「同和教育を学校に持ち込むな」とか、「集会所学級をやめろ」などと教育委員会や学校に圧力をかけているのである。

  9.おわりに

 人権連は、今回の問題で教育委員会が同和教育の「再構築」を約束していることに危機意識を募らせ、「教育現場に新たな障害を持ち組む(ママ——管理人、註)な」と問題の沈静化に躍起になっている。人権連のこの妨害は、やぶ蛇になるだろう。                              

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